ミソノピアの風に漂いながら
- kaminn1117
- 9月2日
- 読了時間: 4分

エッセイ
いのち
kaminn(入居者)
まずもって神戸のマンションで見ず知らずの男に殺害された若き女性「片山恵さん」のご冥福を心よりお祈りいたします。
「いのち」について少し考えてみた。
若かったころの私は歯医者が大嫌いだった。
たかだか歯医者なのに、まるでこれから執行されようとする死刑囚のようだと思っていた。
けれど、ほんとうに死刑囚はこんなものではあるまい。

これはずっと昔の話だが、「連続射殺魔事件」の犯人の永山則夫は多くの本を獄中出版しているが、彼が死刑執行される日、刑務所全館に轟きわたるような絶叫をしながら死刑執行を拒否したという。
なにをいまさらと思う人は多かろう。
しかし彼の犯した罪の大きさは別にしても、私は永山則夫のその気持ちが分かりすぎるほど分かる。
刑場に果てる命を嘆きつつ
虫になりても生きたしと思う
これは昭和35年10月14日、宮城拘置所で処刑された平尾静夫の歌である。
彼は幼くして実母と死に別れ、その後、養母に育てられたが、その養母を殺害した尊属殺人罪で死刑囚となり執行された。
彼は歌をとおして虫になって生きながらえたいと祈っていたのである。
享年28歳。なんという若さか。
ひと日着て残る体温いとしみつ
青さ薄れし囚衣たたみぬ
これは獄中歌人として名高い、島秋人が死刑執行を前に詠んだ歌である。
25歳のとき、貧しさのあまり農家に押し入り、僅か2千円のお金を強奪したあげく家人2人を殺傷した死刑囚だった。
島秋人は歌人としの功績が認められ、獄中で文鳥を飼うことをとくべつに許された。しかし彼も33歳で死刑執行された。
この歌においても、もうこれが囚衣に手に触れる最後になるのかもという、詠み人島秋人のこの世に別れを告げる万感の思いが私の胸を刺す。
上述の3人は人の命を踏みにじっておきながら、おのれの命はこの上もなく大切なのだ。
これが人間の闇の本質なのかも知れない。

作家遠藤周作(故人)は敬虔なクリスチャンであり、なをかつすぐれた宗教小説を多く書いた作家でありながらも、口癖のように「死ぬのが怖い。死にたくない、死にたくない」と言いつづけていた彼の姿に、私は人間遠藤周作としていい知れぬ魅力を感じていた。
悟(さと)りも信仰心もなにも持ち得ない私も死がとても怖かった時期があった。
まだ成人前だったと思うが、死ぬことよりも自分が死んだ先も世界が延々と続いていくということが許せなかったのだ。
そして老いた今、私にとっての「生」とは訳の分からないものであり、「死」はもっと分からないものだけれど、それでいいと思っている。
これは平成の年の話だったが「なぜ人を殺していけないのか」という話題がニュースにとりあげられたことがあった。
私は耳を疑った。「人を殺していけない」のは理屈ではない、問答無用の常識だからだ。
人の命はその命を持っているその人そのものだから、何人たりとも悪意を持ってその人の命の領域に入ってはならない。
私はおかしな世の中になってしまったものだと思った。
この世でいちばん怖ろしいのは「人間の闇」なのかもしれない。そういう私だって人には言えない「心の闇」をいくつも持っている。
その「心の闇」を抑えているのも「人の心」なのだ。
今回、片山恵さんを殺害した男は直前の会社もその前の会社でも、その仕事ぶりはまさに「すこぶるつきで」高評価であったが「心の闇」を抑えることができなかった。
信仰のない私でも若い頃は教会の礼拝に行ったり聖書をひも解いたこともあった。
いまでも忘れられない聖書の章がある。

ある罪のため石打の死刑に処せられる女性に石を投げようとする人たちに対し、主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と語りかけた。すると一人また一人と立ち去ってしまい、誰ひとりとして女に石を投げることができなかった。

人はそれぞれにいくつかの「心の闇」をかかえている。
それでも人は平然と歩いて行くしかない。





『 正しい人は、ひとりもいない 』・・・・・ということが世の中 !?
イソップ物語 “金の斧 銀の斧” ・・・欲張って嘘をつくと、失う代償が大きい
とはいえ、いつでも、どんなときでも・・・「鉄の斧」ということが言えるだろうか?
実は・・・昨日、「少し体調不良だから」と言い残し、昼食をしっかり食べてから帰途
夕方早々から、“冷たいお酒”を。
「このグラスを傾けている瞬間、働いている仲間たちがいる」と思いながら・・・
たまには!・・・自分にご褒美を。