ミソノピアの風に漂いながら Ⅱ
- kaminn1117
- 3月28日
- 読了時間: 3分

エッセイ
やさしさの引き出し
kaminn(入居者)
作家辻仁成のエッセイに「あの人は優しい、と誰かがつぶやく瞬間がぼくは好き」という見出しがあった。
そう、人は誰しもが「やさしいひと」は好きなのだ。
話は飛ぶが、谷川俊太郎に「やさしさは愛じゃない」という詩がある。

やさしさしかなかったんだね、
でもやさしさは愛じゃない、
やさしさはぬるま湯。
私はふやけてしまったよ。
ひっぱたいてくれればよかったのに、
怒り狂ってほしかったのに、
殺してもよかったのに。
あなたは私を褒めたたえてばかりいた、
※以下省略
この詩で谷川俊太郎は「やさしさ」とは情に流されない自立した人間関係を問う言葉で、時には相手の感情を共有し、個として向かい合う「強さ」こそが真の「やさしさ」だと示唆している。
冒頭に記した辻仁成のエッセイには続きがある。
辻仁成はやさしさについて悩んでいる青年にこう述べている。
「君が苦しんでいるのは君が自分の周りにいる人みんなに優しさで接しようとするからだ。
もちろん、それはとってもいいことなんだけど、でも果たして自分が壊れてまで優しくしていていいのか」と。
これと似たようなことを、ごく最近お笑いタレントの「ゆりやんレトリィバァ」が言っていた。
「人にやさしくするのは自分が嫌われたくないから。それに流されずに自分の本当の感情を大切にしたい」と。
さて・・・
それはダウン症の書家、金澤翔子の揮毫(きごう/会場で書を書く)の席上のできごとだった。
翔子は観客が連れてきた「犬」に近づき、「どうぞ」と言って両手で丁寧に自分の名刺を差し出した。
それだけではない「花」を見てはありがとうといい、どこまでも付いてくる「お月さま」に手を合わせてありがとうとお辞儀をして玄関に入るという。
恐らく会場で犬に自分の名刺を差し出す翔子の姿に失笑した人は少なからずいたに違いない。


「風神雷神/屏風」
京都最古の禅寺建仁寺に 国宝・俵屋宗達の『風神雷神』の屏風に金澤翔子の『風神雷神』の書が並んで納められている。
しかし、こんなにも純粋なまでにやさしい心を持つ娘(金澤翔子)を母親は誇りに思ったに違いない。それはダウン症による性格の特徴が含まれているかもしれないが、もしかしたらダウン症に生まれたことに母親は感謝していたかもしれないのだ。
ほんとうのやさしさとは「気づけないささやかなもの」であると作家川上未映子は言い、かつて樹木希林は「本当に優しい人は、心が苦しいときに無理に励ましたり、立ち上がらせようとはしない。静かにそばにいて、安心できる場所と時間を提供する」と言っていた。
私はこの歳になって、とても後悔していることがある。
それは「猫」を愛(め)でる心が自分のなかに育たなかったことである。
私が育った時代は猫はどちらかというと縁起の悪い生きものだったせいもあるが、根っからの「犬派」だった私はこれまで三匹の犬と暮らしてきた。
が、いまこの歳になってみると「猫」の「やさしさ」を教えはじめられている。

猫は犬のようにおしなべて飼い主に従順ではない。
犬は飼い主に対して絶対的服従のやさしさがあり、猫は絶対的「不服従」のやさしさがある。
地球上のイキモノのなかで「猫」ほど不思議な動物はいないと思うし、その不思議さこそが人の心を捉えて離さないのだ。
猫の魅力を語りはじめれば長くなるので筆はおくが、ヤマザキマリの夫の言葉に「僕が人を信用するかどうかは、その人が猫を飼っているかどうかで決める」がある。
愛猫家にはまさに額に入れ飾りたい言葉になろう。
私はNHKTVの「ネコメンタリー」を欠かさず観ながら、これまで見向きもしなかった「猫」によって、もうひとつの「やさしさ」をも教えはじめられてもいた。
そう・・・やさしさの本質を一括りにすることはできない。
やさしさの引き出しは沢山あるのだから。





悲しいとき、泣きたいときに、そばによりそってくれるようですね
きっと、「ねこ」は、“ひとのきもち”がわかるのでしょうね
きっと、あのきれいなひとみに・・・・うつしだされるのでしょうね
そのようなねこは、きっと、きっと、きっと・・・しあわせなのでしょう