これは去年の盛夏の早朝のこと。
いつもの散歩の帰り道、歩道の中央にやや大きめの「カタツムリ」がいた。
このままでは踏みつぶされてしまう、私は横の草むらに移してやった。それはカタツムリだけではなく、足下で目にとまったイキモノは、いつでもそうしている。
最上階の私の部屋にも、なかなか舞い上がれそうもない珍客がよく訪れてくる。
どこから珍入してきたか、2ミリほどのちいさな蜘蛛や羽虫を紙切れに掴まらせ窓の外に逃がしたり、ときには風雨に疲れたか、ベランダにいたカミキリ虫を一晩、部屋の観葉植物の葉に休ませたりする。たとえゴミのような虫一匹であっても、いのちの天秤(はかり)の上で、人とおなじ重さでつり合っていると考えている。
人間は己れが一番不可解であることに気づいてから、目の前の事象や時間にとまどいはじめる。
これは私の敬愛する作家のひとりである伊集院静の言葉であるが、そのようになぜ自分があの朝のカタツムリでなかったのか、ゴミのようなちいさな虫や、風に飛ばされてきたカミキリムシ、はたまたきのう食べた牛や魚に生まれなかったのかと、この世に生を受けた自分の存在の不思議さに戸惑うことがままある。
あの盛夏の早朝。
どういう風の吹き回しか、館(やかた)に帰る道をすこし変えいていた。
歩きながら、なにげなく見た側溝の底に仔猫が座って私を見上げていた。それは僅かな時間だったが私の脳裏に、いくつかの考えが駆けめぐっていた。
館に入居する前だったら迷わず連れて帰れるのに、館はたしかペットは禁止だったようだよな。
早朝なので暑さはしのげそうだが日中は持つまい。警察や保健所に届けても飼い主があらわれなければ殺処分になる。
見るからにとても可愛らしい仔猫なので、この道筋は人たちの散歩道でもあるはずだから、猫好きの人に拾われることを祈るしかないなと、後ろ髪を引かれながら私は帰路についた。
館に帰っても、落ち着くはずはない。側溝の底で私を見上げていた仔猫の目は、あきらかに助けを求めていた。仔猫のことが心配で数時間・・・私は館を飛び出した。仔猫のいた側溝をおそるおそる覗くと、仔猫の姿は見当たらない。仔猫の大きさからしてカラスの類いに攫われたりはしないはず。側溝に争ったような毛も落ちていないのを確認して、私は猫好きに拾われていったことを祈っていた。
実際、毛並みも美しく、とても可愛らしい顔をした仔猫なので、絶対にそうだ。希望的観測ではなく、そうであってほしい。私は再び帰路についた。
その後、数日はその道をとおりながら、仔猫の姿を追ったが側溝は空洞のままだった。
猫好きの家庭で「幸せに暮らしてほしい」無意識のうちに私は神に祈っていた。
日ごろは信仰心のない私が神頼みか・・・神とは人それぞれの精神(こころ)のなかに宿るものなのかもしれない。
そうだ、仔猫はきっと猫の神さまに救われたに違いない。
猫の神さま、仔猫ちゃんをよろしくお願いいたします。
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