ミソノピアの風に漂いながら
- kaminn1117
- 10月21日
- 読了時間: 3分

エッセイ
魂の置き土産
kaminn(入居者)
むかし「21グラム」という洋画があった。
人が死ぬと、ひとしく21g相当身体が軽くなるという1901年にマサチューセッツ州の医師が行った研究発表によるものだ。
軽くなるのは魂が身体から抜けるから、魂の重さは21gであるという理屈でもあった。
ところが人は死したら重くなるともいう。
人は死んだらどうしてこうも重たくなるのか、そう言った作家がいたが、私にもいくどか遺体の入った棺を担いだ経験があるが、やたらと重かった憶えがある。
夏目漱石の「夢十夜」のなかの第三夜に、こんなくだりがある。

男が六つになる自分の子供を負(お)ぶって歩いていた。子との不思議なやり取りの会話が続き、二人が田んぼにさしかかったとき「お前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」と背中の子が言う。
男はこの言葉を聞くや否や、今から百年前のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起こった。おれは人殺しであったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。
※つまり背中に負ぶっていた自分の子が、実は自分が殺した盲目の死人だったと気づいたとたん重たくなったのだ。
遺体が軽くなるのはどうやら死後に体内から蒸発や発汗の類いで身体が軽くなるのだが、それは考慮の上の研究であったが、学会では取りあげられていない。
一方で遺体がやたらと重いと感じるのは、荷物を持ち上げるとき、真下にあるのをそのまま持ち上げるのは簡単だが、少し離れた位置にあるものに腕を伸ばしたまま持ち上げるのは大変なのだ。つまり腕を伸ばしてお棺を担ぐのはとても重いだからだ。

私は死後の世界のようなもの、我々はそれを「あの世」と呼んでいるが、そのような世界は信じていなかった。
しかし「宇宙の限界は人間の脳の限界」と言われるように、あの世や魂の存在を否定することはそのまま人間の脳の限界なのかも知れないと思うようにもなっている。
IQ210という脅威的な知能の持ち主のクリス・ランガン(米国人)をはじめ、世界には魂の存在を確信する科学者や識者が少なからずいるが、その存在は証明できてない。
しかし、人生の最期を迎えたときに魂を信ぜず「闇」に向かうか、魂を信じて「光」に向かうか、どちらを選ぶかは人それぞれなのだ。
そして今、老いた私はこう信じたい。
遺体が重く感じるのは亡くなった人の想い出を、遺された人たちが心に深く刻むために「わたしのことを忘れないで」という最期のメッセージかもしれないと。
それこそが「魂の置き土産」なのだ。

そして「魂」は宇宙の彼方に旅立ち、やがて新しい星のイノチへ・・・




天国も自分の魂も信じて終末を迎える方が「終わりよければ全てよし」とします。
もう少しで、「介護業界」で働いて40年を迎えます( `ー´)ノ
ご高齢者の方々のお身体を何度も抱えさせていただきました
そして・・・お棺もなんども手を添えさせていただきました
その都度、その方の「昨日のこと」「今から向かうこと」・・・そして、「明日のこと」
を考えています
・昨日は、なにをしてたのかな?
・今から、なにがはじまるのかな?
・明日は、どんなことができるかな?・・・と。