うす紅色の布をみた。
櫻の樹液で染めたという。
えもいえぬ色を醸しだしている。
「櫻の花びらからではないのです。櫻の樹のごわごわとした黒い樹皮から染めたのです。
櫻の樹は全身的な育ち方をしていますから、花だけではなく樹液も赤いのです」
と、染め女(びと)、碧月深火が布のまえで佇む私の背後から問わず語りに話しかけてきた。
「話が飛びますけれど、人間の感情は呼気になって空気中に漂うことを識って驚いたことがあります。犬が犬好きな人を察知するのも、イルカが海のなかで、やさしい心をもつ人間に近づくのも、人の感情が空中や海中に溶けだしたニオイを嗅いでのことだそうです。
ニオイを伝達する嗅覚神経だけは、脳に直結している原始的な感覚だそうですから他の感覚とちがって、わたくしたちが自覚しないだけで、人の感情を脳がしっかりと嗅ぎわけているのかもしれませんよね。
だってひとは恋をすると体のニオイが変わるというでしょ? わたくしたちは無意識のうちに、脳の奥深いところで相手の恋心を嗅いでいるのかもしれませんね。
もしかしたら人との会話のなかで直感のようなものを感じたとしたら、相手の心のうごきが匂いになって伝わった結果かもしれません。
わたくしにはよくわかりませんのでネット社会を否定はしませんけれど、SNSって基本的には人と接触しない、人の匂いを感じない世界で繋がっているのですよね。人と人とのコミュニケーションのツールは人の「たたずまい」、つまりいい意味でもわるい意味でも「人間臭さ」が感じられる場で繋がるべきだと思うのです。最近ちまたで盛んに取り上げられているAIは、人間の匂いを置き去りにしたまま、人を無臭の世界へ連れ去ろうとしているようで・・・。
櫻の樹には熱くたぎる赤い血が流れてるのに、わたくしたちの血が、もしかしたらむらさき色に変色して、そのうちに氷のように冷たくどす黒い血になってしまったりして、ああイヤですこと。
アキラさん……、失礼を、たしか××と書くのですよね。いえ先ほど芳名録を拝見して驚きました。亡くなった主人と同じ珍しい漢字でいらっしゃったものですから、ついなれなれしく声をかけさせていただきました。主人とはあまりいい想い出がなくて、いまはこのような染色のお仕事で忘れるようにしていますけれど、なにかの拍子に哀しくて辛かったことばかり蘇ってきたりして涙が出る日もあります。
思うようにならないのが人生なのでしょうね。人の一生ってなんのためにあるのでしょう。人は不平等に産まれて、不平等に育ち、不平等に生きて、そして不平等のまま死んでいくという理不尽さのなかで、それでも平然とした顔で耐えながら生き抜かなければならないのが人生なのでしょうか。
あの日、わたくしは主人との諍いに耐えられず、家を飛び出して旅に出ました。もともと心臓に問題があった主人が心臓発作で亡くなったという報せを、わたくしは旅先でうけました。よかった、と一瞬思ったわたくしは悪い女です。
あ、ついついお客さまに愚痴を申しあげてしまってごめんなさい。」
染めびとはよほど人恋しかったのだろうか一気に話し終えると、窓の外で真っ赤に燃える夕焼けに顔を移された。
ゆくりなくも、染めびとから幽かに漂ってくるにほいに、えもいわれぬ不思議な感覚が私の心の底から立ち上がってくるのをおぼえていた。
夕陽は容赦なく染めびとの顔を赤く染めていた。
その目は血走っていた。
※「ひとのかほり」より抜粋・改稿。
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