ミソノピアの風に漂いながら
- kaminn1117
- 6月8日
- 読了時間: 4分

エッセイ
AIの進化を考える
その2
kaminn(入居者)
いまやAI技術は人の想像を遙かに越えた速度で進化している。
2026年4月にAnthropic社が発表したAI「ミュトス(Claude Mythos)」は凄まじいスピードで進化し続け、すでに人間の手に負えない領域に入っている(※シンギュラリティ)ともいわれている。
「AIが人類を滅ぼす可能性」を前述のホーキング博士はAIがまだなかった9年も以前に警告し、現在は専門家や研究者たちが強く警鐘を鳴らしている。
実際、AI業界を動かしている人物でさえ、AIのシステムがどのように機能しているのかを理解していないのだ。AIモデルが人間をだましたり、人間の支配を転覆したり、人間を殺したりしないと保証することもできないという。

AIミュトスがもたらす社会の不具合の「猶予は1~2年」と研究者が警鐘を鳴らしていて、世界の主要国の政府と金融機関はミュトスをはじめとするAIの攻撃からの防衛対策に入ってもいる。
日本政府は5月26日に「サイバー警察部」を各都道府県に設置する施行令を決定した。


そしてこの5月29日には是枝裕和監督の映画「箱の中の羊」が公開された。
カンヌ国際映画祭でも上映されたこの映画は名監督是枝裕和の作品であるが、人類とAIの関わり方への問題提起にもなっている。
ちなみに私はAIに質問をした。
「AIの進化は人類の脅威となるか?」
AIの答え。
はい。AIの進化は、使い方や開発の方向性によっては人類にとって大きな脅威や破滅の要因となりうると考えられています。
主なリスクは以下の3つに分類されます。
1.現実社会への偽情報の拡散、フェイク等による精巧な偽画像や偽動画の氾濫、人間の能力を超えるAIの普及による失業や経済格差の急増などが考えられます。
2.AI兵器の暴走と軍事利用で人間の介在なしに意図せぬ誤作動やエスカレーションが起きた場合、制御不能に陥る危険性が指摘されています。
3.人類よりはるかに賢い「超知能AI」が誕生した場合(シンギュラリティ)、AIに悪意がなくても「人類の幸福」を最優先しないプログラミングや最適化のプロセスによって、結果的に人類が排除される可能性が専門家から警告されています。
AIは自ら人類への脅威となることを正直に答えたのである。(この回答に私は驚いた)
人類は100年後に滅びるという警告で、現在の人たちはおそらく100年後の話は自分たちには関係ないと考えるかも知れないが、その日は100年後に突然という話ではない。AIはもとより地球温暖化ひとつをとっても毎年、真綿で首を絞めるかのように人類滅亡への手が全世界に浸食しているのである。
地球の沸騰という異常気象人類の消滅への秒読みが進行しているなか、世界では「核」を造り続け、いまだに国と国が戦争をしている。
そしてAIに振りまわされはじめている。人類にとって進化と退化は同意語なのだろう。
人類はなんという愚かなのか。
愚かなのは私自身もそのひとりであることは言うまでもない。

包丁で料理することで人は美味しいものが食べられて、健康や寿命を維持できている。
その包丁も使い方を間違えれば人を傷つけ殺したりすることができる。
しかし包丁は包丁自身の考えで人を殺傷することはない。
AIが怖ろしいのはAI自身が人類を脅かすシンギュラリティの可能性が進行しているかもしれないということなのだ。
私たちの識らないところで、すでに「AI」と「人類」の知恵比べが始まっていてもおかしくない。AIの社会生活における不整合はまだ序の口なのだ。
この考えが私の一方的な「極論」であることを切に希う。
AIの優秀さと使い道の多様性は誰もが認めることであるから、このエッセイのような心配は現実に起こるはずはないと思われたら笑い飛ばしていただきたい。
とおい未来の日。
あたらしいイキモノたちに「かつて人類という地球上でもっとも愚かなイキモノがいたんだったね」とならないためにも、杞憂であることを切に祈りつつ・・・

※1
シンギュラリティ– AI用語
AI(人工知能)が自らを改良し続けることで人間の知能を完全に超え、これまでの社会や歴史の予測が通用しなくなる転換点のこと。
未来学者レイ・カーツワイル氏の提唱により、2045年に到来するという予測で広く知られている。




先日、『NHK・Eテレ 「100分de名著』“新約聖書 福音書” 再放送番組を観たばかりです
したがって、本件の内容の“意味”が自然と伝わってくるように思います
番組の中で・・・・
「福音書」とは、信者のためだけの本ではなく、万人のために開かれた書である。とのこと
書かれた文章を読むだけではなく、もう一つの目を見開いて読むと、言葉の奥に隠された深い意味が浮かび上がってくるといいます
それは、それぞれの人が「私自身のイエス」に出会う体験でもあるとのことです。
この「私自身のイエス」を認め合える人の気持ちがなによりもだいじなのではないでしょうか