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ミソノピアの風に漂いながら

  • kaminn1117
  • 5月8日
  • 読了時間: 3分



エッセイ



被爆ピアノ








              kaminn(入居者)





4月20日。

私は「みどりのまち病院」で開催された「被爆ピアノ」の演奏とお話を聴きに行った。

反響が大きく予定の席数を増やしての開催であった。

ピアノは昭和13年にヤマハで製造されたアップライトピアノで、瀬戸市でピアノ教室を開いている谷口拓未氏が「千の風になって」をはじめ数曲演奏され、被爆ピアノ所有者の矢川光則氏が被爆ピアノにまつわる話をされた。






















このときのピアノの外見は、ほぼ製造当時の状態に保られていて、被爆を思わせる姿ではなかったのが予想外であった。

私はピアノ演奏とトークよりは戦争の悲惨さを伝える「歴史の証言者」と時間を共有したい思いで席に着いた。


途中瀬戸西高校の生徒によって詩人峠三吉の「原爆詩集」から二編が朗読された。

その一編の「序」には深い想い出がある。


それはもう昔のこと、山梨県の小淵沢へ旅したときのことだった。

「フィリア美術館」という小さな私設美術館に目がとまり、なにげなく入館した私は、いくつもの絵画を観ながら一枚の「額」の前で動けなくなってしまった。


その額は吉永小百合の直筆で詩人/峠三吉の「序」が書かれていたのだ。

吉永小百合は、平和への強い思いを抱き特に、原爆詩の朗読を30年以上続けている。

私はそれまで「序」の詩の存在をしらなかった。

すべて平仮名のわずか8行のその詩は戦争の悲惨さを私の心に深く突き刺さっていた。






◇吉永小百合自筆の原爆詩「序」 撮影が不鮮明           
◇吉永小百合自筆の原爆詩「序」 撮影が不鮮明           













   ◇フィリア美術館





              ◇広島平和公園の詩碑「序」



そしてこのピアノ演奏を聴きながら、私はもうひとつの光景を脳裏に浮かべていた。

私はミソノピアに入居するにあたり、どうしても行っておきたかった場所があった。

そこは広島市の「広島平和記念資料館」であった。


2019年11月17日。広島平和記念資料館に訪れていた。

そこに展示・掲載されていた数多(あまた)の「歴史の証言者」による悪魔/原子爆弾の恐るべき姿に私は語るべき言葉を失い館を後にして、平和記念資料館前にある「祈りの泉」へ向かった。


「祈りの泉」とは原爆で焼けただれた全身の皮膚が身体から剥がれながらも水を求めながら死んでいった犠牲者の霊に捧げる噴水である。

陽は落ちライトアップされた噴水を見たとたん、頭上になにかを感じ見上げた。

暮れなずむ空にきらめきながら浮かんでいる星を見たとたん、それまで堪えていた涙が一気に溢れ出した。




◇「祈りの泉」 ※撮影筆者
◇「祈りの泉」 ※撮影筆者

私が広島平和記念館に訪れた数日後にローマ教皇フランシスコが来日され広島・長崎へ訪問され、


「人類はヒロシマとナガサキから何も学んでいない」


と説かれた。

フランシスコ教皇は今年4月21日に天に召された。



                ◇フランシスコ教皇



世界では戦争で悲惨な殺りくと核開発が現在も続いている。

現在世界に核弾頭は1万7千発あり、その1個だけでも広島・長崎に落とされた原子爆弾の500倍あるという。つまり現在1個の核弾頭で日本全土が消滅してしまうのだ。

人類は歴史から何も学ばない。これが現実だ。




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◇冒頭の写真

「原爆の子の像」

被爆による白血病で亡くなった佐々木禎子(サダコ)さんをモデル。




◇サダコの折った鶴
◇サダコの折った鶴

佐々木禎子さんが病室で千羽折ると病気が回復すると言われた千羽鶴を折り続けた。しかし回復することなく、病室で家族に見守られる中、茶漬けを食べたがったという。 口に含ませてもらうと「おいしい」と、これが最期の言葉になった。

※写真は昨年末80年ぶりに見つかった禎子の折った鶴。オバマ元大統領に贈られた。






◇被爆で死んだ弟を背負い焼き場で順番を待つ少年。

    ※この少年のその後は知れず。

 
 
 

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