
エッセイ
省略の美学
kaminn(入居者)
ペロプス
随想家串田孫一に「ペロプスの義手」という随想があった。
手を失ったペロプスが象牙で義手を作って貰うというギリシャ神話から話をとっているが、随想では人間の手の器用さが人類の文明と文化を飛躍的な進歩をもたらせたが、その進歩がかえって人間の手を退化させていると説いている。
そして人間の姿は思い切って手を大きく描いてみるとより人間らしくなる、がしかし思いきって手を取り去ってしまうことで、一段と人間らしく見えるという示唆にとんだ逆説でもって結ばれていた。

そう説かれてみればセザンヌの絵に「略奪」というのがあるが、男に略奪されそうになっている女の手が異常に大きいことが気になったのを憶えている。ありえない大きさの手を描くことで、人間をより人間らしく見せようとしたのであろうか、超天才画家はすでに串田理論より先に画業において実証せしめていたのか。
この絵でセザンヌはあるものを誇張することで、全体の印象を強調しようとするものであるが、串田が随想でほんとうに言いたいことは、あるべきものをなくすことで全体の印象をより深めようとすることなのだ。
そこで登場をねがおうとするのがあの「ミロのヴィーナス」なのである。
彼女の両腕はない。私がいちばん疑問に思ったのは、欠損している両腕を除けば他の部分がほぼ原形をとどめていることだった。
もしかしたらこのヴィーナスを発掘当時、遺っていた腕を取り去った方が女性の曲線美を際立たせるという狙いから、わざと腕をつけなかったのかという邪推がしないでもない。

そのように彼女の両腕が欠落しているにもかかわらず完璧な女性美と見てとれるのだ。両腕がないことでより女性美を際だたせ、美しさを微塵も揺るぎないものにしている。
ルーブル美術館で私は彼女の腕がないことを忘れていた。いや私だけでなく他の誰もが腕の無いことに気づかずにこの美しいヴィーナスを眺めていたに違いない。
実はあの日、私は「ミロのヴィーナス」ではなく「サモトラケのニケ」を観たいためにルーブル美術館に訪れていたのだ。
美術館正面玄関突き当たりの階段の踊り場に立つ巨大な像の迫力には言いしれぬ戦慄を覚えた。


そう、この像にしても首から上がないのだ。
しかしこの女神ニケの尊厳さに変わりがない。
いやむしろ顔がないことで一層この像の美しさと存在感を際立たせているのかも知れなかった。
自室のルーブル
ミロのヴィーナスにしろ、サモトラケのニケにしろ、あるべきもの、しかも肝心な部分をなくすことで、全体の印象を強烈に深めているのかも知れない。
冒頭で触れたセザンヌの革新的な絵画技法はパブロ・ピカソに大きな影響を与へ、ピカソはセザンヌに深い敬意を示し唯一の師と称賛していた。
そのセザンヌには「セザンヌの塗り残し」という有名な言葉がある。
セザンヌの絵画には絵具を塗らない余白がありながら、その絵画を完成としていた。
絵具を完全に塗り込むのではなく、一部を残すことで視覚的な興味と作品に深みを与えるこの手法は彼の絵画に独特の魅力をもたらし、観る者の想像力を高める効果が働くのだ。
ここにおいても、 あるべきものをなくすことで全体の印象をより深めようとするものであり、まさに「省略の美学」なのである。


セザンヌの塗り残し
「ないから・・・みえるもの」「あるから・・・みえないもの」
不思議なタイミングです。
昨日、今日と「視覚障害」の勉強会を実施するために、講師との段取り調整をはじめたばかりです
3月、全スタッフ対象に2回講演にて計画しております。
~あればよい~ ~なければよくない~
ではない世界を学び合わないといけないと信じています