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ミソノピアの風に漂いながら

kaminn1117


エッセイ


宗教的に生きるとは





        kaminn(入居者)






「あなたは神の存在や死後の世界を信じますか」

という問いかけに対し人はどう答えるのか。

この問いに対して私たちが棲む世界のモノサシで答えようとする限り、その行く手には絶対的な壁が屹立(きつりつ)している。


それは「人類における思考の限界」があるからなのだろう。

かつて作家椎名麟三(故人)が「科学の限界はそのまま人間の脳の限界である」と言ったように。


私はあらゆる宗教を信じてない。

しかしながら、そういう私だって窮地に立たされたときには、「神さま!」とつぶやいたことが幾度もある。

まして教会や寺院・神社などで無意識のうちに手を合わせているし、荘厳な建物や仏像などに宗教的な感動を持つことも多く、人里離れた道ばたに風雨にさらされ、目鼻立ちもわかぬような石の仏像につい足を止めて心の中で拝んでもいる。






























そのようにして私は神的なもの宗教的なものに激しく心を揺り動かされるときがあるが、それは人間の誰もが無意識下に持つ「宗教的な心」そのものではないか。


以前このコーナーで触れたように、私は死の間際には「神さま」と呟いて旅立つつもりだ。

神や天国を信ぜず暗い世界に向かって死を迎えるより、天国に行って神や親しかった人と逢えることを信じて、明るい気持ちで「光」に向かって死を迎える方が心は救われるからである。


人が亡くなったらその肉体から魂が抜け出るという話はよく聞く。

肉体は消滅しても魂は遺るということは科学的にはあり得ない話だが、ここにおいても「人間の脳の限界」に百歩譲って、あり得るかもとすることにしよう。


私はこれまで親しくしていた友、大切な人が亡くなったとき、その人との忘れられない想い出と感謝の気持ちを「手紙」にしたためてお棺に入れてもらっている。

その手紙を亡くなった人が読んでくれるとは思ってはいない。けれど宇宙そしてこの地球にも人知を超えた働きがあるのではないかという一縷(いちる)の望みを捨てきれないからだ。


この地球上の命のものに「弱肉強食」というシステムを神が創造したとは絶対に信じることはできない。

とはいえ、私はこれからも「宗教的」に生きていこうと考えている。





あとがき

人前で宗教と政治の話はタブーであるといわれているが、神や死後の世界の有無の話は誰しもが心の裡(うち)で秘かに問うているのではないだろうか。

私もそのなかの一人として、このエッセイを「私個人の感想」として記(しる)した。







 
 
 

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