エッセイ
「無言館」への旅
その1
kaminn
私はこの11月、長野県上田市に旅をした。
その地には「無言館」という心惹かれる名称が付けられた美術館があることを知ったのは20数年前のことだ。
当時、私は「信濃デッサン館」へ訪れていた。その場所に併設されていたのが「無言館」だった。
その無言館のことに触れる前に、どうしても伝えたい画家がいる。
20数年前のそのとき、私は22歳で夭折(ようせつ)した激しくも情熱溢れる画家「村山槐多(かいた)」の絵画である『尿(いばり)する裸僧』を観るために、信濃デッサン館(現在は「残照館」に名称変更)に訪れたのだ。
ちなみに「槐多」という名を命名したのは森鴎外であり、生き急いだ槐多を高村光太郎は「強くて悲しい火だるま槐多」と詩に詠んで哀悼しているが、絵画の他にも「詩」や「小説」にも才能を発揮していて横山大観をはじめ芥川龍之介、江戸川乱歩という天才達にも認められた槐多は、若干22歳で病死してしまったのが惜しまれる。
「尿(いばり)する裸僧」
村山槐多
このとんでもない絵に私は何故か妙に心惹かれ、この絵の現物を観たくて訪れていた。
この強く激しい画風は槐多が愛した「ガランス(フランス語であかね色)」を塗りたくっている。
大胆に托鉢する鉢に向け滝のような放尿をする姿は、槐多が自身の姿を嘲笑うかのようにもとれるが、私には「聖なるもの」と「不浄なもの」を槐多が清濁併せ呑んでいた。
絵を観終えた私は併設されている喫茶室に入った。
私の席の真正面に、なんと信濃デッサン館の館主「窪島誠一郎」がいたのだ。
偶々、私と窪島とは同じ年の生まれであり、彼がある出来事で全国紙に大ニュースとして報道されていた記事の記憶が鮮明に残っていたからなおさらであった。
記事の要約はこうだ。
窪島は戦時中の2歳のときに両親の生活苦から、靴屋の夫婦のもとに実子として貰いうけてもらった
その後、窪島は子供心に自分が両親に似ていないこと、血液型が親子としてはおかしいことに気づき20余年にわたって真の父親捜しがはじまった。
そして1977年6月、ついに父親にたどりつき、父子は30数年ぶりに再会したのだ。
窪島誠一郎
そのとき窪島は36歳、父親は58歳。
ニュースでは「奇跡の再会」「事実は小説より奇なり」と扱われた。父親はなんとあの著名な作家水上勉だったのである。
奇跡は続く。
そのうえ窪島は水上作品の熱心な愛読者だったこと、さらに窪島の家は水上勉の邸宅から歩いて5分とかからないところにあり、父子は同じ町内に住んでいたのである。
このことにより「無言館」の存在が広く知れ渡ることになったが、窪島は自身の著書以外に、父水上勉のことを口にすることは滅多にない。
無言館に触れる前に横道に逸れてしまったが、信濃デッサン館が縁での「村上槐多」と「窪島誠一郎」さらには「水上勉」に話が膨らんでしまった。
「無言館」の話は次回に。
村山槐多は第2回日本美術院展洋画部に「カンナと少女」を出品して院賞を受けた。
独特な世界、見えない強い絆・・・人生のみちびき
目に映し出されると同時に、こころで感じました