エッセイ
懐想譜/1995
「ものがたりのはじまり」
kaminn
このごろはほとんど見かけなくなったけれど、私が育ち盛りのころは町内の家々の玄関先に「アサガオ」が植えてあって、夏になるといろんな色の花を咲かせていた。
その昔。
愛犬の散歩の道すがらちいさな公園があり、その曲がり角から急勾配の下り坂に入る。坂をおりた最初の奥まったところに家がある。その家の前を歩きながら、この家にはどんな人が住むのか……と、そんなふしぎを思うことがあった。
家の二階で、奥さんであろうか洗濯物の取り入れをする姿を見上げて、視線が合ってあわてたり、帰宅されたご主人の後ろ姿を玄関先で見かけたこともあった。
その玄関先には夏になるときまって支柱にツルを巻きついたアサガオがたくさんの花を咲かせていた。
ある日のこと、出社するとファックスで訃報がとどいていた。私もいくどかお世話になった得意先の男性であった。享年を見ておどろいた。若すぎるのだ。どのような理由であれである。その人の住まいはどうやら私のいつもの散歩道にあるらしい。
その晩、会社からいつもの犬の散歩道を逆コースで帰路についた。
れいの家が近づくにつれイヤな予感が膨らんできた。ふだんは停まってない乗用車が数台、その家の近くに停まっていた。玄関先に黒幕がかかっていた。もう予感は間違っていない。
あの日、玄関に入られるご主人が後ろ姿で気がつかなかったけれど、私が仕事で幾度か会っていた男性が亡くなったのだ。
こうやって、人は突然この世からいなくなってしまうのか。
この家のなかで、いまごろはとても悲しい物語が続いているのに、家の外ではなにごともなかったように過ぎていく。
亡くなった男性の一回り以上も生きている私は黒幕をかいま見ながら、まだ生きている……足で地面の感触を感じながら、そう、私も「人の死を食(は)みながら、生きているのだ」とおもった。
しずまりかえった家のなかで、しかし、すべての部屋の灯りが煌々と輝いていた。
空からいまにもずり落ちそうな赤黒い雲が垂れこめていた。
そしてまた夏がきた。
夏は──、あの日から何年経っただろうか。
あの家のあの人が亡くなってから、車庫のなかで微動だにせず埃をかぶっていた自家用車は、いつのまにか軽の新車に替わっていた。
そう、あの日から見ることがなかったアサガオの花が玄関先に一斉に咲いていた。
ふいに玄関の戸が勢いよく開き、少年が飛び出してきた。
「車に気をつけるのよ!」
家の中から明るい声とともに、母親らしい女性が出てきた。
そのとき、私の脳裏にある光景が蘇ってきた。
あれはかなり前のことだった。私が犬の散歩で通りかかったとき愛犬が糞をした。
私は慌てた。うっかりして始末する袋を持たないまま散歩に出掛けていたのだった。
玄関先でアサガオに水やりをしていたその女性が、
「いいですよ、わたしが始末しますから」
と声を掛けてくれた。
それが家の中から出てきた母親らしい女性だったのだ。
私をチラッと見て、アサガオに水をやりはじめていた。
私の愛犬はすでに亡くなっていたが、声を掛ければそのことを想い出されるだろうか、そ知らぬ顔で母親の前を通りすぎる私に、香(かぐわ)しい薫りが漂ってきた。
アサガオの花は静寂で冷々たる長い夜の時間を耐えぬいて、はじめて咲くという。
「この先たくさんの幸せがありますように」
それは女性に向かっての言葉であったのと同時に、上司と衝突をして会社を飛び出した私が五十路を越えての転職で、あても無い故郷に帰ってやり直そうとしていた自分にも向かっていた。
この朝焼けの光のなかに何があるのだろう。私は二度と歩くことはないこの道を、もう少し歩いて行こうと思っていた。
Коментарі