
エッセイ
いのちのかたち
欠落を生きる
kaminn
吉本ばななの「スウィート・ヒアアフター」を再読した。
あとがきによれば、この本は2011年3月11日の東日本大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いた小説だという。
とてもやさしい話だった。震災で亡くなられた方が読むかどうかはともかく、遺された人への魂の救済の物語だと思った。
やさしさとは、大病をしたり辛い別れを経験したり、いくつもの挫折を経てきた人に育む傾向が強いものだと思う。
けれど、吉本ばななはそれほど辛い人生を送ったとは考えられない。彼女の本のおしなべての「やさしさ」を、あえていえば職業作家としての才能というべきか。


私にくらべれば、はるかに辛酸な人生を送られてきたと考えられる作家の車谷長吉氏(故人)は偏屈者で表向きはやさしくはないが、底意に流れるやさしさを感じ取ることができた。
そんな車谷の書き物で私が好きな「神の花嫁」のなかに次のようなくだりがある。
「あたくしたちはこうして普通に生きていることが罪深いことなんです。人間は牛や豚を殺して平気で喰うていますから。」
このように言う女性にたいして、車谷はこう言い放つ。
【普通、こういう発想をする人は欠落を生きている人だ】
と。
車谷長吉からこう決めつけられた私は戸惑っている。
私にはいまだに忘れられない記憶がある。
今は昔、家々の天井裏はネズミの運動会だった。
そんなネズミをネズミ取りで捕まえた大人たちは、家の前を水の流れる溝を堰き止めて、ネズミ取りごと水に沈めて殺していた。
水のなかで必死になって出口を探しもがき続けるネズミを、小学生の私はなんの感情もなく、息絶えたネズミが水中で浮揚するまで周りの大人たちと見とどけていた。
老いたいま、私がそのことを想い出すのは辛い。忘れてしまっていいはずの遠い昔の、たかが1匹のネズミの姿がいまだに脳裏にこびり付いている。
その基(もとい)には私はなぜ人間として生を受け、あの日人間の手で殺されたネズミに生を受けなかったのかという永遠に解くことの出来ない謎が、心のなかに漂っているからである。

世の中には動物や魚類などのイノチの尊厳のために
「ベジタリアン(菜食主義者)」
になった人たちも多い。
この地球上の「弱肉強食」というイノチを繋(つな)ぐための残酷過ぎる大原則をなぜ神が創ったのかと問いつつも、私は日々の食事で肉や魚を食している。
けれど、このような感情は誰もが少なからず心の片隅に抱えているはずだが、私のようにあえて表に出すことはない。
そういう視点からすれば私はじつに変わり者であり、この言いこそが「欠落を生きている」のかもしれない。


before after

ネズミくんはどこか人里離れたところに放たれたり、釣り人も
無駄な殺生をしないでリリースされるといいよね♪

そうだね・・・

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