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ミソノピアの風に漂いながら

  • kaminn1117
  • 2024年9月23日
  • 読了時間: 3分




エッセイ


いのちのかたち

  これからが、

   これまでをかえる

kaminn



2023.6.9 19:22  9Fより

 


私が世界の後進国に心惹かれるのは、その場所に佇(たたず)む人たちの暮らしや表情に、遠い日の貧しかった自分の面影を無意識下に重ねているからなのかもしれない。

そのように、かつて中国の奥地の田舎によく旅をしていた私は、そこに棲む人たちの家々や暮らしぶりに親近感のような感情を持って眺めていた。

 



















晩年の父は、むやみに旧交を温めたがっていた。

当時としては長寿にあった父は、あちら側に逝かれた人の多いなか、日本列島のあちらこちらの僅かな風の便りで友の消息を知ると出かけて行った。

そんな姿を垣間見るに、きっと父は老いても五体満足な姿を「自慢したかった」のだろう、と私は勝手な思いで見ていた。

 

しかるに、父の、そのときの年代に近づくにつれ、私はそうではなかったということに気づかされる。

父は──まさに「懐かしさを愉しんでいた」のだ。

 





部屋の壁についた遠い日の傷跡がある。

新築間もない自宅の居間の壁にむかって、私は何かを投げて付けた傷だ。

その傷は、だから《とくべつ》な意味をもっていたはずだ。

いまは昔、人手に渡ってしまったその家にある壁の傷を懐かしんでいる自分がいる。

想い出したくないはずの、《とくべつ》な意味をもった傷なのに。

 

私にはあの世に持っていかなければならない幾つもの躓(つまず)きがある。あのとき私は何故そのような行為をしたのか、今となれば理解に苦しむ想い出も幾つかある。

その想い出したくない躓きがこの歳になって、あの日の部屋の壁の傷のように脳裏に見え隠れするようにもなっている。

 

先ごろ読んだ本にブラジルの作家の言葉が印象深く心にとどまっている。

 

「夕焼けは雲があるほど美しい」

 

私が若気の至りで壁につけた傷跡、あれは「雲」だったのか・・・。

忘れがたい「楽しかった歓びの日々」を共に映えさせる「雲」として、心のなかで浮揚していたのかも。









そう・・・人にはそれぞれに「想い出したくない躓き」がある。

もしも「わたしにはそんな恥ずかしい想い出はない」と仰(おっしゃ)る人がいたとしたら、私はその人を信用しない。

 

人生の修行ができていない私は、幾つもの躓きを心の底に沈めている。

しかし、それらの躓きに背を向けず雲として漂わせたとき、はじめて人生が完結するのではないかと考えるようにもなっている。

 

人生の晩秋にひとり佇みながら躓きを懐かしむ日々がやがて来るのではないか。

歳を重ねるということは、そういう心のはたらきもあるのかもしれない。

 

「これからが、これまでをかえる」

 

もう少し歩いてみよう。

 

 



 









「うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ」

                           良寛/辞世の句

 



 
 
 

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