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ミソノピアの風に漂いながら




エッセイ



懐想譜/大江健三郎その3

         光くんのこと

 

 

 

      

 kaminn



やがて幼年から少年へ成長した光(ひかり)くんが、鳥の声の次に興味を持ったのは「音楽」であった。11歳でピアノを弾き始め、絶対音感があり13歳には作曲を手がけるようにもなっていた。

 





そしてみるからに優しい青年に成長した光くんは、自ら作曲した曲のCDを何枚も発表し、幾つもの音楽賞を受賞するまでになっていた。

 

しかし言葉が不自由のため、人とのコミュニケーションが、ほとんどできないままであったが、光くんを音楽家としてここまで育て上げた両親、ことに大江健三郎の力添えには想像を絶するものがあったであろう。

 




脳の障害にある光くんは泣くことを知らず、いちども涙を流したことがないという。

その涙を知らない光くんが、大江健三郎の言葉を借りるなら、まさに魂が泣き叫んでいるような音楽を作曲していたのだ。涙を流すことを知らない光くんが、音楽の手を借りて涙を流していた。

大江は光くんの曲を聴き、涙をみせない光くんの心の中に悲しみというものがあることを知ったという。

 





私は光くんの音楽では、ことに「夢」というバイオリンの小品が好きである。


光くんの曲の旋律の透明感や純粋さに感銘を受ける作曲家は少なくないという。

重ねての言葉となるが、光くんの楽曲は大江夫妻の溢れんばかりの愛情をなくしては、達しえなかった世界である。

 




多忙な大江健三郎は努めて光くんに寄り添っていた。

そして日本文学の金字塔である大江健三郎文学は、なによりも光くんとの「共生」が基盤になり、大江健三郎と光くんをモチーフにした作品をいくつも執筆した。

その作品群で光くんは重要なキーパーソンとして登場し、ノーベル賞受賞の道筋をつけた。

 

日本で川端康成に続き2人目のノーベル文学賞を授賞した大江健三郎は、1994年スウェーデンのストックフォルムにおける授賞式に光くんをも同行させた。


当時31歳になっていた光くんは、「自分がノーベル賞を受賞して、父の大江健三郎が自分の代わりに受賞式に参加してくれるのだと思い込んでいた」という。

 








光くんが作曲をした「海」の手書き楽譜に「なるべくフォルテをふやさないように」と光くんの文字がある。

演奏するピアニストがその意味を質(ただ)したところ、光くんは「フォルテが多いと海が沈むから。海はお父さん、お父さんが沈むと困るから」とこたえた。

 








大江健三郎は故郷の山が好きだった。そこで出会う大きな木をとても愛して、いつも寄り添っていた。

大江は人間は一人一人魂を宿らせる自分の木を持っていて、死ぬと魂がその木に戻り、時が経つとやがて魂は木から抜けて、新しい人の命に宿ると語っていた。

大江にとって死とは恐くないものであり、死を恐れず次に生まれ変わる命を信じていた。

 

西洋に「大きな木はいつも静かに笑っている」という諺(ことわざ)がある。

光くんにとって父大江健三郎はまさに「大きな木」であり、人生のすべてであったといっても過言ではなかろう。


2023年3月大江健三郎は亡くなった。

 

「海が沈んだ」のだ。

 

その「大きな木」を喪った光くんは、今年61歳になった。

光くんは今どうしているのだろう。

 

彼の暮らし向きが杳(よう)として知れてない。

 

                                             


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