エッセイ
犬と暮らした日々/その2
kaminn
モモと暮らすなかで、けっして忘れられない犬の姿があった。
中国北京では地下室や防空壕などの狭い空間に住んでいる人たちがいる。
このような人のことを「ネズミ族」と呼んでいる。
ネズミ族とは地方から北京に出てきたものの、地上の賃貸住宅は家賃が高すぎて手が出ず、やむを得ず地下のマッチ箱のような部屋で暮らしている人たちのことを指す。
私は偶々(たまたま)テレビでネズミ族の報道を観た。
番組でネズミ族の男性が一匹の犬と、終日リヤカーを引きながら行商をする姿を追っていた。
行商を終え、疲れ果てた男性と犬が、地下室のマッチ箱のような部屋に戻り粗末な食事を済ませると、寝床にあつらえていた段ボール箱に身体を埋めながらいる犬の、なんとも穏やかな表情が、まるで天国にたどり着いたかのようだった。
その日、犬の暮らしにおいて、なにひとつとして過ぎたものはなかったけれど、こうして一日の終わりに、粗末で狭いながらも眠りにつくことができる場所があること。たったそれだけの当たり前の日常こそが、犬にとって幸せそのものなのだ。
それは同時になんでもない日常の幸せの上に胡座(あぐら)をかきながら、当たり前の顔をしている自分への警鐘でもあった。
さてモモはその後、すくすくと育ち人でいうところの大人の歳あたりに差しかかっていた。けれどいまだに腕白盛りで私の言うことを聞いてくれない。
犬好きは独裁者タイプに多いといわれている。わたしもどちらかというとそういうタイプに近い、けれどわたしはモモに対して珍しく気が長いのだ。
わたしはモモを飼ったとき、躾(しつけ)のようなことは一切しまいときめた。
「お手・お変わり・待て・おあずけ・よし」などはモモにとってはどこ吹く風だ。
犬なのにまるで猫のようにマイペースで、飼い主のわたしにさえ媚(こ)びることはなく、
撫でてほしくないときは、歯を剥き出して嫌がるのだ。
だからモモはわたしが呼んでも来ない。いやたまには来ることがあるが、私はそれでいいと思っている。
飼い主にたいして絶対服従する犬や、どのような人にでも尾を振って懐いていく犬が多いなか、おおよそ犬らしくないわが家の愛犬は、いつも独りぼっちだけれど、いつでも私の行動や様子を部屋の片隅で見守っている。
まるで「猫」。そんな犬らしくない犬だからこそ、よけいに愛(いと)おしいのかもしれない。
モモだって好んで犬に生まれたわけではないし、そういう私だって好んで、または選ばれて人間に生まれたわけではない。わたしという意識とモモの意識が入れ替わったとしてもまったく不思議ではない。たまたま意識を持った身体が犬だったのか、または人間だったのか、それだけのこと。そこに何らかの「必然性」は存在し得ないと考えている。
モモには驚いたことがあった。
犬は鋭い歯を持っている。その気になれば私の指の骨を砕くだけの力がある武器でもあるのだ。
ある日モモとじゃれ合っていたとき、モモの歯が偶然私の手に当たったことがあった。それは噛んだのではない、たまたまモモが開けた口の歯が私の手の触れただけのことだった。
けれど、そのときのモモはとっさに、私の足下に絶対服従の姿勢で伏せ、まるで悪いことをしたという眼でわたしを見あげていた。
その瞬間、わたしはモモに深い精神性を感じていた。この先、モモの行動のすべてに「イエス」であろうと心に決めていた。
同時に、あと何年共に生きられるか分からないが、楽しかった犬の一生を送らせたい、そう考えてもいた。
〈続く〉
おまけ
これでも、こどもをもつ親でもあるのですが・・・
こどもを、まわりの子と、「いわゆる能力」などをくらべたりしたことはないのですが(#^.^#)
うちのわんちゃんに関しては
・・・おとなしく散歩している犬、ドッグランで仲良くあそぶ犬、ドッグカフェでしずかにごはんを食べている犬などに遭遇すると。
「いいなぁ~」と思ってしまう自分がいます。
しかし、ベッドで横になっている自分の足元、寝そべるわんちゃんの姿に・・・
「あなたしかいません。ぼくをしあわせにさせてくれるのは・・・」と語りかけます(o^―^o)ニコ