エッセイ
「まなざしのゆくえ」
気まぐれ絵画論
kaminn
入居して驚いたひとつに、館内のいたるところに絵画や書が飾ってあることだ。
なかでも入居者自身がかかれた絵や書が多くあって、しばし足を止めさせられることが多い。今年も入居者の作品の「文化展」が開催され眼の保養をさせていただいた。
私は絵心、筆心、詩心などは持ち得ないが、絵や書や詩を鑑賞することも趣味のひとつとしている。
そんなこともあって他愛もない話をひとつ。
一枚の絵がある。
木版画家清宮質文(せいみや・なおぶみ/故人)の「九月の海辺」である。
私のお気に入りの一枚だ。
夕凪の海が地平線をすっと一本に描きながら、あたり一面を静寂な世界に包みこんでいる。
だが、ここで私が気になるのは、砂浜に寝そべる女性の「まなざしのゆくえ」にある。
コップのなかのサカナを見る彼女のまなざしの焦点は、じつはサカナではない。その向こうの「なにものか」に向かっているのだ。
不思議なまなざしをした木彫の彫刻がある。
これまで経験のないまなざしだ。
日本を代表する彫刻家、故舟坂保武を父にもつ舟坂桂の作品である。
桂は自らの彫刻のもつ目線のふしぎさについてこう語った。
「あれは自分自身を見つめる眼である」
それはおそらく、彫られた像自身の内面を見つめると同時に、作者である舟坂桂自身の内面にも向かうものであろう。
「この世に存在するすべてのものには理由はなく意味がある/舟越桂」
死にゆく人間はコスモ(森羅万象)に向かう。
天才レオナルド・ダ・ヴィンチが生涯手元において描きつづけた「モナリザ」はコスモに向かいつつも、いのちの生と死をあらわした傑作といわれている。
ここでも問題になるのがやはりモナリザの「まなざし」にある。
微笑(ほほえ)みながら、どこかへ向かっているまなざしの解釈は数世紀にわたり議論の的となってきた。
しかしここで私は、そのまなざしのゆくえに対する、ひとつの解釈に誘(いざな)われる。モナリザの顔の上部をよく見てみると半透明の黒いベールをまとっているのが見える。
これは妊娠中や出産直後の女性が身に着ける「グアルネロ」と呼ばれるもので、つまりモナリザの微笑みは「母になった女性の喜び」をあらわしているという説だ。
やはりここでも、モナリザのまなざしは自身に向けられていることになる。
九月の海辺の女性、舟越桂の木像、そしてモナリザの「まなざしのゆくえ」にあるもの、それは近くにありながらも遠くて不可解なもの──そう、自分自身の内面に向かっているのだ。
ここまでお読みになった方々が「お察し」のとおり、すべての人においても「自分自身を見つめるまなざし」を日々の暮らしのなかで持っていることに気づかされる。
それは「物思いに耽(ふけ)っている」ときの目線、つまり自分の心の中を彷徨(さまよ)っているまなざしなのだ。
話は飛ぶが、ここでひとつ私の拙い仮説を付け加えたい。
ダ・ヴィンチは同時代の若手ミケランジェロに名声を先取りされ、また依頼されたあまたの絵画を未完成のまま放置したりして、生涯にわたり決して恵まれた環境になかった。
その暮らしのなかでダ・ヴィンチはモナリザを生涯にわたり手元に置いて描き続けていた。「モナリザ」の手の部分は描き込まれていなく、瞳に光を入れられていない。つまり未完成のままの状態でダ・ウィンチは旅立った。
ここで私はこう考えたい。
ダ・ヴィンチは数多くの絵画を未完成のまま放置していた。
芸術は「完成から崩壊がはじまる」という箴言があるが、ダ・ヴィンチは「モナリザ」をあえて完成させないまま手元に置いていたのだ。
「モナリザ」を永久(とわ)に崩壊させないために。
話を当館の「文化展」に戻そう。この11月もあまたの力作が掲げられた。
なかでもこの絵画の画才には驚かされた。
ちなみに昨年の「文化展」で私の心を大きく動かした「墨絵」を最後に掲げたい。
作者は加藤量子さんで、作品名は「空」。
「空」を「そら」と読むか「くう」と読むか私は迷ったが、私には「くう」ととれた。
作者に尋ねると「そら」であった。
それが「そら」であっても「くう」であったとしても、私には深い精神性を感じさせる作品であることに揺るぎはない。
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