
エッセイ
「消えてゆく
消えてゆく・・・」
kaminn
エッセイに少々固さが目立っていたので、少しはやわらかいものが書けないかと考えていたら、とつぜん「向田邦子(むこうだ くにこ)」の顔が浮かんできた。
直木賞作家であり、かつテレビドラマ脚本家でも名を成した向田が、航空機事故で51歳の若さで台湾の空に消えてから42年も経っていたとは・・・
向田と親しくしていた久世光彦(故人)は作家と演出家として切っても切れない間柄にあった。ふたりを追慕して想い出すことがある。
仕事のうえとはいえ、向田邦子とかなり親しくしていた久世が、向田とのありし日を偲(しの)んで書き上げたエッセイ「触れもせで」は文学史に遺したい名エッセイでもある。


その本のなかで久世は、テレビドラマの仕事の打ち合わせで、幾度か向田のマンションで夜を明かしたことがあったという。男と女と一つ屋根に……下衆の勘繰りをよそに、久世の文章はじつに清らかなたたずまいにあった。
そう、久世と向田はまさに久世のエッセイ「触れもせで」のタイトルどおりの関係にあったのだ。
さらにエッセイで久世は、向田は男の人に指一本も触れずに生きた人であろうとも書いていた。
しかしながら向田の書き上げた作品には、じつに繊細な男女の機微がいたるところに散りばめられてもいることに気づかぬ読者はいなかったであろう。
「隣りの女」のように、ドキッとするような色っぽい小説や、テレビドラマの最高傑作「「阿修羅のごとく」に出てくる男女の機微を向田はみごとに描き出してもいる。
私の若いころ、国民を必死にテレビに齧(かじ)り付きさせながら笑い転がせ続けたドラマ「時間ですよ」も向田の脚本であったのだ。
ところが向田が遺した自身の写る写真には、あまたの「おんな向田邦子」たる妖艶なすがたが映しだされてもいた。写真は向田がひた隠しにしていた恋人のプロカメラマンが写したものであった。


久世を騙(だま)しとおせた恋人の存在は向田の死後、妹の向田和子によってその恋人との恋文が明るみに出され、向田の恋路が暴露された。
向田の恋人は病に伏せっており、ある日自死をしたことを知った向田が、薄暗い部屋で放心しきっている姿を部屋の隙間から偶々(たまたま)見た妹和子は声も掛けられなかったという。
久世は向田から恋人の存在があったことの欠片(かけら)も知りえなかったというなら、向田はまさに怪物であったわけだ。

私は向田が台湾の空に消えた日、テレビのニュースで乗客名簿に「K・ムコウダ」という名があることを知り、いたたまれない気持ちでテレビに釘付けになっていた。
私は買い置きのウイスキーを持ち出して飲み始めていた。かなり酔っていたのだろう。「K・ムコウダ」の字幕が「向田邦子」に変わったとき、私はテレビに向かって「バカヤロー」と叫んでいた。
向田の通夜の酒肴は向田が妹和子のために開いた小料理屋「ままや」で供された。
集まった作家仲間と向田の関係者は遺影を前にとても酒を飲める状態ではなかったが、飲まずにはいられなかった。目を真っ赤にして皆は飲み続けた。沈黙を破るように誰かが「何か歌いましょう」と言った。誰かが軍歌「戦友」を歌い始めた。向田とは作家としての戦友だったからだ。
歌声は次第に涙声にかわり、やがて途切れ途切れになり、そして・・・突然終わった。
向田の恋路の真実が明るみに出てよかったのか、わるかったのか。
男と女の恋路は、つかみどころがなくもあり、うれしくも切なくもあるものなのだ。
向田の美しくも哀しい恋物語は、人知れずひっそりと幕を閉じようとしていたのだったのだが・・・
あの日。台湾の空で砕け散る機体とともに向田はなにを思ったか。誰にもあかさなかった秘めた恋路の「文」を人の目に触れさせまいと、おのれの手にとり戻すべく、必死にたぐり寄せつつ空に消えていったのだろうか。
その真夏の日。
近くには「王蘭」「梅花湖」「暁星山」「花蓮」などの美しい名の山や場所があるのに、よりによって機体は「火焔(かえん)山」に落ちた。

消えてゆく
消えてゆく
・・・・・
合掌。
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