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ミソノピアの風に漂いながら          「いのちのモノサシ」

執筆者の写真: misonopia aichimisonopia aichi

                    

                                   

  エッセイ     

         

「いのちのモノサシ」


   

                       kaminn


                      




さいきん気になる言葉に「人生100年時代をどう生きるか」というのがある。


この先、抗加齢・老化予防の技術の進化で高齢化が進み、2100年に生まれた赤ちゃんの平均余命は200歳を超えているという予測さえ出ている。


人の寿命が延びていることは歪(ゆが)めない事実ではあるが、温暖化による地球環境の破壊や食糧危機、東西冷戦の拡張の深刻化、犯罪のグローバル化、変質者の多様化と多発、高齢化による生活環境の維持と金銭問題など、ただでさえ生きにくいこの世の中で、200年もどうやって生き延びていけというのだろうか。手放しで喜べる道理はない。

そんな時代まで自分は生きていられないという負け惜しみではない、むしろ現在の寿命の在り方こそが有り難いと考えている。


私の宝物のひとつに「手塚治虫からもらったハガキ」がある。

まだ私が中学生に入るころ、手塚先生はまだ20代だったと思う。その手塚治虫のライフワークである「火の鳥」は永遠の命というテーマを壮大なスケールで描き、人間が残酷な運命に翻弄され続ける物語である。




生物にはそれぞれに寿命があることに大きな意味がある。

人間も当然のこと生物の仲間であり、命に限りがあるからこそ、生きがいのある人生へと努力をし続けている。

人が永遠の命を手に入れたとき、何が始まるのか。そこにはもはや生きがいという言葉は存在せず、生きる努力をしなくても生き続けていかなければならない世界がある。それは死よりも残酷なことではなかろうか。





「では訊くけれど、君は永遠に生き続けて、いったい何をしょうとするのだい?」


手塚治虫は「火の鳥」をとおして、そう繰り返して我々に問いかけていたではないか。


命の長短をかんがえるとき、私には忘れられない映画がある。

今すさまじい勢いで進化している人工知能である「A.I.」というタイトルでスティーブン・スティルバーグ監督が2001年に映画化したSFドラマである。


物語は「地球温暖化」により極地の氷河が溶け果て海の水位が上がりニューヨークをはじめ世界の海抜の低い都市が全滅しているなか、永遠の命を持って造られた「ロボット少年」が、人間の女性を母親としてインプットされることから始まる。

母親の愛情を得ようとするロボット少年と、生身の人間である母親との間にはコミュニケーションの取り方に絶望的な隔たりがあった。


物語は紆余曲折し時代は大きく推移し、母親はもとより人類は全滅し、ロボットの世界となっていた。わずかに残っていた母親の髪の毛のDNAから母親が復活できるが、生きられる命はわずか1日であるという。





「僕を本当の人間にして」

ロボット少年は言った。ロボットではなく、人間として母親に会いたいというねがいが叶い、母親と再会をした少年は、たった1日であるが「人生」の至福のときを過ごす。

やがてして命のタイムリミットである1日が経ち、母親は1日の命を終え、そしてわずか1日ではあるが念願の人間になった少年の命も終え、二人は夢のうまれる場所へ旅立つ。

そして、物語はおわる。


無限に生きることのできるロボットの命と、わずか数十年の限りある人間の命、どちらが意義のある時間なのだろうか。そのターニングポイントとは・・・

少年はロボットという永遠の命を捨て、かけがいのない人間としての1日の命を選んだのだ。人生とは、人間の寿命とは、何よりも生きるということは、そして時間とは時間のもつ意味とは、など深く考えさせられるものがあった。


人類は地球温暖化を加速させ、すべての生き物を道連れにして人類を滅亡へと誘導しつつ、人類の寿命を延ばそうとする。


この二律背反に佇(たたず)む人類の行く手に、神は何を見ているのだろうか。



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