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kaminn1117

ミソノピアの風に漂いながら

「やさしいうそ」




  エッセイ



やさしいうそ





              kaminn









わたしは幼いころ怖がりだった。

終戦後で世の中がまだ暗かったせいかもしれない。

昼なお暗い家に住み、夜中に尿意をもよおして真っ暗な階段を下り、暗い廊下を手探りで向かう便所の道のりはまさに地獄そのものだった。

夜の街中も暗く薄気味悪くて出歩くことはできなかった。


小学も高学年になると戦後の街に明るさが出はじめて、わたしも遊ぶ場所を屋根の上に広げたころ、屋根瓦の下で雀の巣をみつけた。

産まれたばかり、丸裸同然の数羽の雛のうち一匹を握ると家にいそぎ、ちいさな紙の箱に入れ、便所への横の物置に置いたのだ。

いくら貧しい暮らしにあっても、雀の子の餌くらいは何とかなるのに、少年の日のわたしは、雀の子のことを両親に口にすることが出来なかった。


ご飯粒でだけで雀が育つはずはない、と思いつつも雀を必死に隠しつづけた。今にしてみれば笑い話になるが、雀のエサのご飯粒がもったいないと考えていたのだ。戦後間もない家庭はおしなべて貧しかったから、そんな思いは不思議ではなかった。


雀の子は啼かないわけにはいかない。ほどなく雀を見つけた両親は意外にも、ふたつ返事で飼うことを許してくれた。

刷り込みはほんとうだ。雀はわたしを親と思いこんでしまった。学校から帰ると、雀を鳥籠から出して遊んでやった。

























ある日のこと。学校の帰り電柱に留まっている雀のなかの一羽が、わたしに向かって啼いていると思った。チュンチュン。わたしの飼っている雀がまさかそんなところにいる筈はない。そのまさかが現実になった。家に帰ると、母が言った。


「お客さまの持っていた風船に驚いて開いていた窓から逃げたの」


わたしは厚い雲が垂れさがった空にむかって、雀の名を呼びつづけた。






しかし、ここでわたしがあえて遺しておきたいことがある。

あの時代の夜の闇のなかの、哀しさと、貧しさと、寂しさは、それでいて妙にほんのりとした、まるで真綿に包まれたような温かさにあった。

それは過ぎ去ったものへの美化でも、老いの郷愁でもない。

あの夜の暗さの厳しさこそが、人たちに耐えることの大切さを教えてくれ、人の心をはぐくみ、人と人の絆を強いものにしてくれていたのだ。




その昭和の初期の時代、街は暗く町内のほとんどはその日暮らしに近い家々にあったが、その暗さと貧しさを包みこむ町の人々の明るさこそが、その後のわたしの人生そのものを育ててくれていたことを、老いたいま知らされもする。


わたしの子供のころは、まわりに変な子がたくさんいた。

が、どうってことはなかった。変わっていることが普通だったから。変わっていたら、それこそイジメもあるにはあったけれど、カラッとしてみんなトモダチだった。




変わっていたのは友達だけではなかった。町内のおじさんもおばさんも面白い人たちばかりで、真っ昼間から一升瓶を抱え、家の前で座り込んでいるおじさんや、シミーズ一枚で胸元からペチャパイを覗かせたおばさんが、近所の子供たちをちゃんと監視してくれていて、お目こぼしはなかった。


ちょっとでも悪さをしたり、道理にはずれたりでもしたら、頭ひとつひっぱたかれて、首根っこをつままれて、そこんちへ連れられてコンコンと説教されもした。そのように近所の大人の人から説教されたりしたことが、いい肥やしになっていたと思う。

そういう一連のことが心の栄養剤になって、「忍耐」を育んでくれていた。忍耐って「ガマンするチカラ」だと思う。


今日この頃の子育てに言及する資格はないが、親の愛情も受けず、ガマンすることを教えられない子供が大きくなったら凶器になるにきまっている。

ところがどうだ。今ではちょっと変わっているのがいたら、よってたかって、どこかに押し込めてしまったり、陰湿なイジメで殺してしまうのだから。


わたしがこの地に引っ越してきたころ「不審者情報」で驚いたことがある。


「××地区において、児童の列に向かって手を振る男の人がいました。云々・・・」


え! それって不審者? わたしだって可愛い児童たちの列に出会ったら、思わず手を振ることだってあるから。

地球上の出来事といい、人の関わり方といい、ずいぶん住み難い世の中になったものだと思う。


ところで冒頭に記した雀のことで、先日「エッ?」と思うことがあった。

あの日からすでに70年以上も経ったつい先だってのこと、テレビで昭和歌謡番組の放送を聴いていたときのことだった。

ある歌が流れていたときわたしは何気なくテレビの字幕の歌詞を観て思わずあの日の雀の姿が蘇ってきた。


その歌は「籠の鳥」だった。

その歌こそ、あのころ母がいつも鼻歌で歌っていた「歌」であったのだ。その歌は当時日本中で流行っていた歌謡曲だったけれど、幼い私には歌詞が理解できず、母の鼻歌のメロディだけ聴いていた。





わたしにはテレビで流れるそのメロディの歌詞を聴いておもわず息を飲んだ。

歌は「籠の鳥」で、歌詞の一部に、

♪ あなたの呼ぶ声 忘れはせぬが 

♪ 出るに出られぬ 籠の鳥


母があのとき「お客さまの持っていた風船に驚いて開いていた窓から逃げたの」といった言葉は、ひょっとしたら嘘であったのかもしれない。

母が日頃口ずさんでいた「籠の鳥」の歌を、飼っていた「雀」と重ね合わせて、雀を自由の身にと逃がしてやったのか・・・


そうだとしたら、それはそれはやさしいうそであったのかもしれない。


すでに彼岸の遠くに逝ってしまった母に、ことの真偽を質すことはできぬが、テレビから流れる歌を聴きながら、わたしはあの日の母の歌声を幻聴(きこう)としていた。




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